嵐の予兆
ボクは次の日、不安と共に目覚める。
理由の一つは、生徒の一人である美乃栖 多梨愛が、傷害容疑で告訴されたからだ。
そしてもう一つ、真っ赤なツインテの少女、可児津 姫杏の不安に満ちた顔。
「妹さんの件、お父さんと上手く仲直りできればいいが……」
洗面台の鏡に、歯ブラシを加えた冴えない顔が映っている。
「問題ってのは、一つ一つ順序よく起こってはくれないなあ」
コーヒーと食パンを食べながら、ふとテレビのスイッチをONにした。
『今日はここ、教育動画で有名なユークリッドの、超高層高級マンションからの中継です』
女性のレポーターが、見慣れた円筒形の建物の前で造られた笑顔を振りまいている。
『このマンションには、教育動画にて教鞭を振るう、おなじみの先生たちが住んでいて、もちろんあの有名な女子高校生数学教師、瀬堂 癒魅亜さんも最上階に部屋を構えているとのコト』
義務教育が無くなり、教育が民間に移譲された現在、高校生とか中学生という言葉は、もはや年齢を現わす単位でしか無かった。
「これは……思ったより大事にしてきたな」
『スタジオの塩谷です。今日はどうして、ユークリッドのマンション前から中継が繋がっているのか。まずは、こちらの映像をご覧いただきましょう』
それまで、スタジオの司会者たちを映していた映像が、記者会見へと切り替わる。
久慈樹 瑞葉がニューヨークで開いた、豪奢な記者会見場では無い。
一人の男の周囲を、大勢の記者が取り囲んでいるという、ありふれた物だった。
「わたくし、 邦康と申します」
頬のこけた背の高い男が、気持ちよさそうにフラッシュを浴びている。
「実は今回、ある傷害事件の被害者である少年たちから、弁護を承ったのです」
男は堂々と、少年たちを『被害者』と言った。
「加害者も未成年であり、少年法もあるので実名は伏せますが、彼らはユークリッドの生徒によって病院送りにされたのです」
『今、ユークリッドの生徒……と仰いましたよね?』
『先生の、間違いではないのですか?』
天空教室の存在を知らない記者たちが、弁護士に問いかける。
「ええ、わたしも最初は、耳を疑いましたよ」
男は不敵に笑った。
「既存の学校教育を否定し、義務教育や学校の存在を否定して成り立っているのが、ユー・クリエイター・ドットコム……通称、ユークリッドですからね」
「ユークリッドは、学校教育そのものを否定したワケじゃないさ。学校教育の至らない点を、否定してはいるが……」
テレビの向こうの弁護士に、やり込められてしまうボク。
その後も、瀧鬼川弁護士の雄弁は続いた。
ボクは、退去期限まで二日と迫ったアパートの扉に、鍵を掛け出勤する。
「ユークリッド……ユミアに雇用される前のボクであれば、彼の言葉に共感し大きく頷いていたハズだ」
立場が変われば、主張も変わってしまうのだ。
「ボクは、ユークリッドという大企業の看板に、泥を塗ってしまったってコトだよな」
足取りも重く地下鉄の改札を潜ると、ポケットのスマホが震える。
「はい、もしもし……」
「フフ、どうした。浮かない顔をして?」
どうして浮かない顔をしていると解かるかは、聞くまでも無かった。
実際ボクは浮かない顔をしていたし、スマホの向こうの人物に何を言われるのかと、内心怯えていた。
「悪いが授業の前に、社長室に寄ってくれないか?」
「は、はい」
「瀧鬼川弁護士……中々に笑わせてくれる、男じゃないか?」
ボクのスマホは、そう言って切れた。
「やはり社長は、このまま引き下がる気は無いみたいだ」
今回の事件以前から、ユークリッドはマスコミに評判が悪い。
それは、時代を変えた変革者にたいするやっかみでもあっただろう。
「生徒たちまで、弁護士やマスコミとの争いに巻き込みたくはないが……」
けれどもそれは、あまりに希望的観測に思えた。
前へ | 目次 | 次へ |