エンジェル・トリックブラシ
ボクは駅員たちの誤解を解いた後、瀬堂 癒魅亜の通ったであろう駅の改札を出る。
ドップリと日が暮れた街は、完全に夜の帳の中にあった。
「まいったなあ。彼女がどっちへ行ったかも解らない。時間も経ってるし、当てズッポウで探すしかないか? でもアレだけ目立つ髪をしてんだし、人だかりになってるんじゃないか?」
手始めにボクは、駅の高架下のコンビニを覗く。
手持ちの少なかった無職のボクは、何かを買うフリをしながら店内を周った。
「やっぱ、コンビニなんかに居るワケもないか?」
それらしき髪色の少女は居ない事を確認すると、コンビニを出る。
駅周辺の、同一チェーンのほかの店舗や、別のチェーン店にも入ってみたが、やはり見つからない。
コンビニ以外にも、ドラッグストアや百円均一の店も廻ってみたものの、どこにも彼女の姿は無かった。
「やれやれ、無駄足か。もしかしたらファミレスかカレー屋とかに入ってんのかな。でも流石に飲食しないのに、飲食店に入るのも……ん、待てよ?」
ボクの融通の利かない脳ミソは、やっと現実的な結論に辿り着いく。
「……つか、瀬堂 癒魅亜なら相当稼いでるんだし、タクシーで帰ったのかもな? そりゃそうか。彼女も子供じゃないんだし、家にくらい一人で帰れるよな」
自分の愚かさに呆れながらも周囲を見回すと、駅からかなりの距離まで歩いていた。
「疲れたぁ。今日は面接で、一日中歩き回ってたからなあ。また駅まで歩いて戻るのか……」
棒の様になった足を何とか前に運び、瀬堂 癒魅亜と出会った駅に、やっとの思いで戻ってきた。
「疲れた……アイスコーヒーでも買おうか?」ボクは再び、高架下のコンビニに入る。
「涼しいィ! やっぱコンビニの中は、天国だわ」
熱くなった体を冷やすため、とりあえずコーヒーは後回しにして、コンビニの通路を再び巡った。
普段からよく利用するブックコーナーで立ち止まって、目ぼしい本でも探してみる。
「まあこんなモノか。コンビニだしな。たまに『一般相対性理論』や『量子力学』の本とか置いてあるんだケド。こないだ読んだ『原子の本』なんか面白かったな」
それらの本は、ウチの本棚に勢揃いしていた。
ボクはそのままブックコーナーを立ち去ろうとすと、なぜか隣にいた女の子が目に入る。
彼女は、手にしたファッション雑誌で隠す様に顔を覆い、頭にハンチング帽を深々と被り、そこから溢れ出した栗色の髪には軽いソバージュがかかっていた。
「んん? ……アレ!?」ボクは彼女の顔を、しっかりと観察してしまう。
少しグレーっぽい黒色の瞳は、泣きはらした後の様に周りが赤くなっていた。
穿いているスカートも、『グレーにピンク色のチェック柄』だった。
「キ、キミ、もしかして……!?」思わず声を上げるボク。
「な、何なんですか!? やはり、あなたもストーカーの一味ですか!?」
帽子の下の瞳が、ギロリとボクを睨み付けた。
「うわあ、やはりキミか。気付かなかったよ。少し心配になって、後を追って来たんだ」
「はあ? アナタに心配される覚えなんて無いんですケド。泣いたのだって、ここのところ疲れが貯まっていて、つい涙が零れたって言うか……」
泣いた事など何も言っていないのに、彼女は全力で反論をして来た。
「その様子だと、大丈夫みたいだね」「だから何がなんですか!」
彼女はボクの全てが気に喰わないらしい。
「ハンカチは……その、汚れちゃったんで後で返しますから。それじゃ……」
立ち去ろうとする彼女を、ボクは質問で呼び止めた。
「いいよ。どうせ百均の安物だからさ。ところで、髪の色も瞳の色もさっきと全然違うよね?」
「それが何か?」瀬堂 癒魅亜は、冷たい視線をボクに向ける。
「瞳はカラーコンタクトにしたって、髪の色まで変わっているじゃないか。栗色の降ろしたソバージュ・ヘアって……何時ものって、もしかしてウィック?」
何時ものとは、瀬堂 癒魅亜のトレードマークの翡翠色のツインテールの事だった。
「はあ? 何、時代錯誤なコト言っているんです。『エンジェル・トリックブラシ』を知らないんですか? こうやって髪を梳かすだけで、色が変わるんですよ」
彼女は、それを自分の髪の先っぽで実践してみせた。
栗色の髪をブラシで梳かすと、そこだけ翡翠色に変わり、再び別のブラシで梳かすと元の可愛らしい栗色へと戻った。
「す……凄いな。それって、温度による科学変化なのか?」
「わたしは数学担当なので余り詳しく無いですが、科学担当の先生によると、温度によって色が変わる口紅の応用らしいですよ」
論理的で解りやすい口調は、まさに動画の中の瀬堂 癒魅亜のものだった。
ボクは目の前の女の子が、『ユークリッドの数学教師』なんだと改めて実感する。
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