ボクシングの知識
「大丈夫か、袴田……」
ボクは、砂場に寝転がっていた男に、声をかけた。
「……ッテー。アイツは、どこへ行きやがった?」
「タリアのコトか。ユミアと一緒に、先に帰らせたよ」
袴田の手首を掴んで、引っ張り起こす。
「オレは、何分くらい気を失ってた?」
「そうだな、10分くらいか」
「そっか……アンタにも、見っともないトコみせたな」
狂気に満ちた袴田と言えど、女のコに一方的にボコられたとあっては、立つ瀬も無いのだろう。
表情からも、悔しさが溢れ出ていた。
「タリアは仮にも、ボクシングの経験者だ。本気のボクサーを相手にしたら……」
「なにが本気だ。アイツは、完全に手ェ抜いてやがったぜ」
「……え?」
驚くボクの目の前で、砂を払いながら起き上がる袴田。
「アンタ、運動神経無さそうだから、気付いてないかもだがよ。アイツはバンテージこそ巻いてやがったが、自分の拳やオレの身体を痛めないように、パンチを寸止めしたあとに殴ってやがったんだ」
「そ、そうなのか?」
「フィニッシュだって、そうさ。オレが傷付かないように、砂場に放り込んだのさ」
「タリアのヤツは、そこまで強かったのか」
ボクは袴田に言われるまで、なに1つ気付かなかった。
「正直、高架下でやられた時は、油断したから負けたと思ったんだがよ……」
アゴを撫でながら、紺碧(こんぺき)の空を仰ぎ見る、真っ赤な長髪の男。
「アゴか。ボクサーにとっては、大事な部位だと聞いたコトがあるが」
かつて彼は鉄道の高架下で、タリアのキックでアゴを粉砕されて入院している。
「……らしいな。オレも素人なんで、詳しくねェがよ。じゃあな、先公」
袴田は、公園を出て行った。
「袴田は、ボクシングを始めるのだろうか……」
ポツリと呟(つぶや)いた質問に、無邪気に遊具で遊ぶ子供たちは答えてくれない。
仕方なくボクは、腕時計を確認した。
「探偵の真似事をした挙句が、尾行相手に見つかって思わぬ展開になったな」
アナログの年季の入った時計の針が、12時近くを指している。
「今から戻れば、午後の授業には間に合うか」
ボクも、公園を後にした。
しばらく速足で歩いていると、水野ボクシングジムと書かれた看板のある建物の前を通り掛かる。
興味本位で中を覗き込むと、蒼いマットのリングにヘッドギアをした男が2人、スパーリングをしているのが見えた。
「ン……アレは?」
片方の選手のヘッドギアから、赤い髪の毛が覗いている。
細身で長身だが、筋肉はしっかりと付いていた。
「アイツ、自分からここに戻って来たんだぜ」
背後から、聞き覚えのある声がする。
「タ、タリア!?」
慌てて振り返ると、天然パーマの長身の少女が立っていた。
「女のコにコテンパンにされたのが、よっぽど悔しかったんでしょうね」
「ユ、ユミアまで……」
「どうせ先生の授業を受けるんだから、一緒に帰れば済む話よ」
「まあ、それもそうなんだが……袴田のヤツ、本気でボクシングを始めるのか?」
「そうらしいね。どこまで続くか見物だよ」
「どうせ直ぐに音を上げるに、決まってるわ。恐い顔して、見かけだけじゃない」
「タリアが強すぎるってのも、あると思うぞ」
「ま、アタシと互角に戦えるのは、レノンくらいだしねェ」
「ア、アイツも、お前並みに強いのか」
「ああ。アタシが遊びでボクシングを教えたら、いつの間にかハンパ無く強くなってたよ」
「そ、そうなのか……」
「そ、そうなんだ……」
ドン引きする、ボクとユミア。
「だけどアイツも、中々のセンスをしてるよ」
「で、でもタリアに、ボコボコにされてたじゃない」
「それはアタシが、ボクシングの経験者だからね」
タリアはクルクルしたクセ毛を、パーカーのフードで隠す。
「アイツは背が高く細身で、手や足が長い。リーチがあるってコトさ。それに見てみな。アタシが教えた、ジャブで相手との間合いを計るってのをもうやっている」
「ホントだ。確かに腕が長いから、しなるように相手の顔にヒットさせている」
「フリッカー気味のジャブだね。アイツは、相手を舐めてるってか、ガードもまだまだ甘いから、自然とそうなるんだろうよ」
パーカーを着た少女は、嬉しそうにボクシングの知識を披露していた。
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