芸能界の厳しさ
ボクも友人も、バーに流れる艶やかなシャンソンに、しばらくの間聞き入っていた。
「マスターは、お母さまのコトを知っていらしたのですか?」
アロアが、曲を選んだマスターに問いかける。
「ええ、もちろんですよ。柿沼さまは、このバーの常連でいらっしゃいましたからね」
マスターは、シェイカーに氷を詰めながら答えた。
「柿沼……2人の苗字は、安曇野(あずみの)だよな?」
「芸名に、決まってるだろ。お前って、けっこう天然だよな」
友人の言葉に、腹を立てるボク。
「いいえ。柿沼 恵理は、本名ですの。もちろん、父と結婚する以前の苗字ですケド」
「アイドルとして輝いていた時代の、名前ですわ」
「でも、その時はまだ、2人は生まれて無かったんだよな?」
「もちろんですわ、先生。当時の母は、今のわたくし達よりも年下でしたの」
「お母さまの活躍は、ビデオやDVDで見て、知っているんです」
「彼女はアイドルでありながら、歌唱力をとても高く評価されておりました」
銀色に輝くシェイカーを、音を抑えながら振るマスター。
「ボクはアイドル自体、まったく詳しくないから知らなかったケド、確かに凄い歌唱力だよな」
軽い気持ちで言って傍らを見ると、アロアとメロエが不機嫌そうな顔をしていた。
「確かに母は、歌唱力に優れておりました」
「ですがそれは、必ずしもアイドルに求められる素養では無かったのです」
「歌唱力が求められないって、そんなコトも無いだろう。アイドルと言っても、歌手なんだし?」
「いや、やっぱお前は解って無いわ。アイドルってのは、歌手である以前にアイドルなんだ」
少しアルコールに酔った、友人が言った。
「言ってる意味が、解らんのだが……アイドルに歌唱力があっても、困るモノでは無かろう」
「困るとかそう言う話では無く、求められているかどうかなのですよ、先生」
「アイドルファンの皆様の多くは、未完成の少女の成長を求めておられるのです。アイドルの曲に、完璧な歌唱力など必要では無いのですよ」
「厳しい言い方になるが、柿沼 恵理はトップアイドルでは無かった。お前が知らない理由も、そこまで人気が出なかったからだ」
「だけどそれは、ボクがアイドルを知らないってだけだろ……」
「ああ。確かにアイドルオヲタクを自称するヤツなら、知ってて当たり前の名前だ。だけど、一般人に名前が知れ渡ってるレベルじゃ無い。いくらアイドルを知らないお前でも、アイドルの名前の1人や2人くらいは言えるだろ?」
「そりゃまあ、言えるが……」
「だけどな。世間に名が知れ渡ったアイドルの誰よりも、柿沼 恵理は歌が上手かった」
友人の言葉に、反論できないボク。
アロアとメロエの言う、芸能界の厳しさが少しだけ解った気がした。
「お母さまのアイドルとしての経歴は、決して華々しいモノではありませんでしたわ」
「若くしてアイドルを引退され、その後は女優業やこう言ったバーなどで歌ったりと、細々と活動されておりましたの」
「そんな折、とある時代劇でお母さまはお父さまと出会ったそうです」
「脇役ではあってもレギュラーだったお父さまと、一回きりのゲスト出演だったお母さま。ナゼか気が合ったと、仰っておりましたわ」
「お父さまってのが、新浜 瑛滋さんだったよな?」
「新浜 瑛滋って、あの怖い顔のオッサン……あ、ゴメン」
口を滑らせた友人が、2人に謝る。
「確かにお父さまは、強面でしたから」
「でも子供の頃は、お髭で遊んだりもしたのですよ」
すると、2人の前にカクテルグラスが2つ置かれた。
オレンジ色とワイン色のグラデーションの液体に、丸い氷が浮かび、オレンジが添えられている。
「どうぞ。わたしオリジナルのジュースです。もちろん、アルコールなど入っておりませんから」
「あ、ありがとうございます。いただきますわ」
「美味しい。オレンジとカシスですわ、お姉さま!」
「新浜様も、この店に来店されたコトがあるのですよ。そうですか、お2人の娘さんが……大きくなられたモノだ」
初老のバーテンダーは、好々爺の顔になっていた。
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