詩杏の決意
詩杏が天空教室に迎え入れられるまで、こんなコトがあった。
「超高層マンションに、タクシーで乗りつけるたぁ」
「芸能人にでも、なった気分やな」
タクシーのフロントガラスに映し出された、天を衝く円筒形のマンション。
「タクシーに乗ってるのも、マスコミのカメラを避けてのコトだしな」
実杏と理杏の言葉も、あながち間違いでは無い。
「ストリーミング動画の人気が、ここまで高くなるなんて、昔なら想像もできなかったよ」
「今じゃ影響力は、テレビを超えたって言う人もいますからね」
後ろの席に、双子に挟まれて座っている詩杏が言った。
ユークリッド……時代の寵児たる企業に、ボクは関わっているのか。
思えば就活の最中までのボクは、アンチ・ユークリッドの立場だった。
「アイツも、ボクの動画を見て仰天してるんじゃないかな……」
「なあ、先生」
「アイツって誰や?」
「ああ。今年の夏くらいまで、一緒に就職活動をしてた友達だよ。ボクより先に就職先が見つかって、今はスマホゲーム会社の音楽担当をしてるらしい」
「ゲームミュージックですか。凄いですね」
「まあ、年中ギターぶら下げて、歩いてたヤツだからね」
「まるで、オトンみたいやな」
「せやせや」
バックミラーの中の、元気な双子姉妹。
「昔はオトンも、家ン中でギターかき鳴らしおって……」
「ようオカンに、どやされとった……で」
いつの間にか瞳に涙を浮かべ、姉の小さな胸で泣いている。
「ち、父の話は止めましょう」
姉は、泣きじゃくる妹を両腕で抱きながら、絞り出すように言った。
「父はもう、昔の音楽好きな父ではありません。姉さんの大事なギターさえ、壊して捨ててしまったんですから……」
「だけどキミたちは、昔の音楽好きな父親は大好きなんだろう?」
「で、でも今のオトンは、ウチらを殴りつけて……」
「キア姉とシア姉を、冷蔵庫に閉じ込めおったんや」
「だったらさ。昔みたいな音楽好きな父親に、戻ってもらえるように努力しないか?」
「それは……簡単なコトではありません」
「ああ、その通りだよ」
「父は、音楽講師をクビになって生活の糧を絶たれ、全てを世の中のせいにしたんです」
「社会ってのは、生易しいモノじゃない。ボクも大学期間中に就職できなかったツケを、後々払わされたからね」
「でも先生は、ユークリッドの教師として立派に働いています。父は……」
「偶々ボクは、運が良かっただけさ」
それは、心の底から感じていた。
「キミたちの父親は、キミたちが大きくなる何年もの間、専門学校の音楽講師として働いていたんだよね。ボクの教師としてのキャリアなんて、まだほんの少しだよ」
今の世の中、職を失うリスクは誰にでもある。
例え今日、生徒たちを前に教壇に立っていても、明日は就職活動を再開しているかも知れない。
高度経済成長もバブルも、遠い昔の出来事となった日本では、終身雇用の安定したキャリアなど望めようハズも無かった。
「わたしは、父を許せるでしょうか……」
「時が解決してくれたり、そのウチに折り合えたり出来るかもしれない。確実にそうなるなんて言えないケド、そうなる可能性だって十分にある」
「わたしも、強くならないといけないみたいですね」
「せやな。ウチらもオトンをシバき倒しせるくらい」
「強うなったるでぇ」
三人の姉妹たちは、覚悟を決めた様子だった。
それからボクたちを乗せたタクシーは、地下駐車場に滑り込む。
「どや、シア姉」
「めっちゃイイ眺めやろ?」
エレベーターの全面ガラスに、夕焼けがスミレ色へと染まっていく風景が映った。
「わ、わたしには、場違いな気がしてきました」
「心配せんでええで」
「ウチらが着いとるさかい」
双子姉妹に引っ張られ、天空教室へと入っていくシア。
「は、始めまして。可児津 詩杏と申します。本日より……」
「そんなに気を遣わなくていいわ。同年代のコたちも居るし、気楽にいきましょ」
ユミアが、テニスサークルの少女たちに視線を向ける。
「あなたが、キアさんの妹さんね。わたしは、禄部 明日照(アステ)よ。仲良くしましょう」
「ええ、よろしく」
シアとアステは、ぎこちない握手を交わした。
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