1杯のラーメン
「解っていたコトだ……問題無いさ……」
動画コメント欄での辛らつ極まりない評価に、ボクは精神を深くえぐり取られていた。
「顔がゾンビっすよ、先生。生気が失われてるっス」
「そろそろココを出ませんと、午後からの授業に間に合いませんわ」
「そうですわね、お姉さま。先生、顔を洗っていらしたら?」
「ああ……そうするよ」
重い腰を上げて洗面所の前に立つと、梲(うだつ)の上がらない顔がこっちを見ている。
「覚悟はしていたが、ああも低評価を喰らうと流石に厳しいな……」
ボクは子供の頃に見た、昭和の熱血先生のドラマに憧れて先生を目指した。
「でもドラマの中の先生は、授業も面白いし個性もあって、生徒たちからも慕われている」
果たしてボクは、先達のような能力を持ち合わせているのだろうか?
「その能力が、大きく不足しているから、あんな評価をされるんだよなぁ」
鏡の向こうの男が、深いため息を付く。
するとリビングへと続くドアから、生徒たちがやって来た。
「まだ顔も洗って無かったんスか。水道は止めてないから、ちゃんと水も出るっスよ」
「ここは、空き物件だったのでしょう?」
「水回りは止めちゃうと、錆びつくっスからねえ」
「でしたら久々に、我が家のお風呂に入るのはどうでしょう」
「いいですわね、お姉さま。テミルさんもいかがです?」
「……イヤ、そんな時間無いっスよ」
ボクはテミルにせかされて顔を洗うと、テミルに背中を押されて家を出る。
「もっとキビキビ歩くっス。それにどこかでお昼も食べないと、午後の授業に響くっスよ」
「ああ……それなら……」
頭が混乱していたボクは、生徒たちを行きつけのラーメン屋に招待した。
「こ、ここは……何とも庶民的なお店ですわねえ」
アロアが、目の前に出されたお冷を見つめながら言った。
「今どきあんな分厚いテレビが、置いてありますわよ」
メロエが、ブラウン管のテレビに驚いている。
「それよりあんな骨董品に、ちゃんと画像が映っているのが不思議っス」
そこはかつて、就活中に友人と何度も訪れたラーメン店だった。
「お、久しぶりじゃないですかい」
ボクの顔に気付いた店の店主が、人懐っこく話しかけて来た。
「お久しぶりです。そう言えば、随分と来ていなかったような……」
「それにしたって、随分な出世じゃないですか、先生」
「……え?」
店主から先生と呼ばれたのは、始めてだった。
「昨日から、ユークリッドの動画の話題で持ち切りでっせ。ホラ」
ラーメンを湯切りしていた店主は、視線をブラウン管テレビに投げる。
そこには生徒たちの前で教鞭を取る、少し頼りない先生の姿が映っていた。
「こ、これ、よく見たらウチらの動画じゃないっスか!」
「あまりに映像品質が悪いんで、昔のドラマかと思ってましたわ」
「そ、そうですわね。昭和の時代の、ドラマみたいですわ」
「昭和の時代の……熱血先生のドラマ……」
その映像は、ボクが憧れた熱血教師によく似ている。
「ヘイ、お待ちィ。ラーメン4杯ね」
目の前に並ぶ、年季の入ったラーメンどんぶりが湯気を上げた。
「そう言えば就活中は、眼鏡をかけていたな……」
ラーメンの湯気が、眼鏡を曇らせていた頃を懐かしく感じる。
「こ、これが1杯、350円っスか」
「ちゃんとチャーシューとタマゴも、入っておりますのに」
「ここは要チェックですわ、お姉さま」
「こんなに可愛らしい女生徒さんを、何人もはべら……連れて来られて、羨ましいですな、先生」
「そう……ですね」
考えてみれば、前に来たときボクは無職で、先生なんて遠い雲の上の存在でしかなかった。
「アレから色々と変わって、ボクはこうして生徒たちとラーメンを食べに来ている」
ボクは今、なりたかった職業に就き、好きなコトを生業にしていた。
そう考えるとネットでの批判や誹謗中傷も、些細なコトのように思えて来る。
「先生、食べないんですの?」
「伸びちゃうっスよ」
「ああ、食べるさ」
ボクは1杯のラーメンに、有り難く手を合わせた。
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