亡き兄
『久慈樹 瑞葉』と名乗った男は、細い眉と切れ長の目、サラサラとした髪をしている。
「やあ、キミが癒魅亜が言っていた家庭教師かい?」
彼は見た目も若く、ボクや倉崎 世判と同年代にも見えた。
「どうでしょうか? まだ契約には至ってません」
ボクは率直に言った。
「なあに、癒魅亜は気に入った人間としか、付き合わないコでね。こうして部屋まで呼ばれたというコトは、合格なんじゃないか?」
「勝手に決めないでくれるかしら? 判断は雇用主である、わたしがします」
ネット動画の大スターであるユミアは、この若き社長をあまり気に入ってないようにも見えた。
「予想をするくらい、ボクの勝手だろう?」「では、勝手に予想しててください」
久慈樹 瑞葉の問いかけに、ユミアはソッポを向く。
「ヤレヤレ、嫌われたモノだねえ」彼は、スタジオにあった、大きなソファに腰かけた。
「でも、きっと合格さ。だってキミ、どことなくアイツに似てるからさ」
「アイツって……?」ボクが言いかけた時だった。
「社長!! 兄の話は止めてくださいと、お願いしているじゃないですか!?」
アニメのような翡翠色の髪の少女は、綺麗な表情を歪ませた。
「別にボクは、キミの願いを何でも聞くとは言ってないぜ?」
ユークリッドの現社長は、正論を展開する。
「ボクは社長で、キミはボクの部下だ。きっちりと仕事をして貰わないと困るんだがね」
「仕事は……します。ですから、兄の話は……」
「キミにとって、アイツが優しい兄であったように、ボクにとってもヤツは親友だったのさ」
彼は高そうなボトルから、グラスに赤いワインを注いだ。
「キミもどうだい。キミの半年分の収入くらいは、しそうな代物だぜ?」
「いえ……ボクは現時点では無職ですし、それを何とかする為にやって来ました。ですから、遠慮させていただきます」
「そうかい……キミも、アイツと同じで、クソ真面目だな?」
「そこだけでも、似ていると言われるなら光栄ですよ……」
ボクは社長にそう告げると、ユミアの方に向かった。
「キミのお兄さん……『倉崎 世判』だったんだね」
愚かなボクは、その時始めた理解した。
「もっと早くに、気付くべきだったよ……ゴメン」
「謝らないでって言ってるでしょ……」蛍光ピンクの瞳から、大粒の涙があふれる。
「兄は……倉崎 世判は、ユークリッドの生みの親なのよ」「ああ……」
ボクは同時に、彼女が心の底から笑えなくなった理由も知った。
「だが、ヤツは死んだのさ。とてつもない名声と、巨大企業を遺して……な」
久慈樹 瑞葉はボロボロと涙を流す少女の瞳を、真っすぐに見ていた。
「ア、アナタは……兄の会社を……」
「誰かが継がなければ、ヤツの夢であるユークリッドは消えてしまっただろ? アイツがいなければ、ただの小娘に過ぎないキミに、それが出来たとでも言うのかい?」
「アナタみたいな人に、何が解るの!?」
ユミアは、少女のように泣いていた。
「お兄さまは、アナタを信頼していた……それなのに……」
久慈樹 瑞葉は反論もせずに、スタジオを出て行った。
開いたドアからは、夕日であろうオレンジ色の光が漏れる。
ボクは彼女に、再びハンカチを差し出した。
瀬藤 癒魅亜はスタジオを出て、自室のリビングのソファに横になる。
「ゴメンなさいね……恥ずかしいトコ見せちゃって……」
彼女の目は、ハンカチで隠れている。
「お兄さまは、言ってました。ユークリッドは貧富の差も無く、動画を届ける存在であるべきだと……」
カーテンが開け放たれた大きな窓に、巨大な夕日が沈んで行くのが見える。
「キミは、兄さんの遺志を継ぎたいんだね……」
「うん……」彼女は、小さく頷いた。
その時ボクは、心に決める。
「ボクを……キミの先生にしてくれ」
それは、世の中から必要とされなくなった職業に就く、最初の一歩でもあった。
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