メロンクリームソーダ
挽き立てのコーヒーと、焼きたてのパンの香りに誘われ、ボクはカフェの中に足を踏み入れた。
渋い色のウッドデッキに、ブルーやオレンジ色の照明の光が落ちる。
「ソファーもフワフワだし、コーヒーも上手い。やはりセレブな街で店を開くとなると、かなりの品質や素材が要求されるんだろうな」
ボクは注文したコーヒーの湯気を、顎に当てながら香りを愉しむ。
無論、普段コンビニで頼む100円コーヒーで、その様な行動を取った記憶は無い。
「メロンクリームソーダを一つ……アイスの量はたっぷりでお願い」
突然だった。
ボクのソファーから、テーブルを挟んで反対側のソファーに、サングラスを架けた小柄な女性が座る。
つまりは、ボクと相席になる様に彼女は座ったのだ。
「あ、あの……あなたは?」ボクの質問に、女性は即答する。
「依頼主よ。家庭教師のね。全く……」彼女は不機嫌そうに言った。
「え? き、キミは……まさか……?」ボクは、彼女の声に聞き覚えがあった。
ブカブカのハンチング帽から溢れ出す栗色の髪の毛や、サングラス越しでも神秘性を失わない瞳を知っている。
ボクの目の前に座っているのは、紛れも無く『瀬堂 癒魅亜』だった。
「わたしの依頼に応じたのが、寄りにも寄ってあなただなんて……そりゃ、驚くってものよ」
瀬堂 癒魅亜は、サングラスをずらしながらボクを見る。
すると店員が、エメラルド色の液体の入ったグラスを運んで来た。
注文通り、たっぷりのアイスが乗っかっている。
「い、いや……驚いたのはボクの方だよ。ユークリッドの教師であるキミに、家庭教師なんて必要無いだろう? どうしてこんな依頼を……」
「必要だからに決まっているじゃない。あなたを雇うかどうかはホント迷ったけど……実を言うと、今でも迷っているわ」
彼女は、メロンソーダの上に渦巻き状に盛られたソフトクリームを、スプーンですくった。
「確かにボクは、教師として誰かを教えたのは教育実習くらいだ……。少しは勉強してきたつもりだケド、一年を通して授業を受け持ってきたキミには、到底及ばない」
ボクは、彼女に言い返せるだけの実績を持って無い、自分に対して腹が立った。
「ご、ごめんなさい。今はそれどころじゃ……ちょっと待ってて」
見ると彼女は、溶けると量が増し、溢れ出しそうになる仕組みのメロンソーダのアイスを、必死に口に運んでいた。
「こ、これ量が多過ぎだわ。ソフトクリームが溶けて、ソーダが……」
夏の日差しはアイスを容赦無く溶かし、水量の増したソーダ水は、グラスからあふれ出ている。
ボクは思わず噴き出しそうになりながら言った。
「それ、先にソーダ水を飲めば溢れないんじゃ……?」
彼女は顔を真っ赤にしながら、勢い良くソーダ水を啜った。
「う、うっさい。そ、そんなに可笑しいかな? 誰にだって失敗はあるでしょ!」
瀬堂 癒魅亜は、女子高生の八つ当たりっぽく怒った。
「アハハ……ゴメン、ゴメ……」「ほら、まだ笑ってる」
彼女と目が合うその瞳は何故か潤んでいた。
それに気付いたのか、彼女は顔を背ける。
「そ、それよりね。わたしが家庭教師を雇おうとしてるのは……」
言いかけた瀬堂 癒魅亜は、周りの目を気にし始める。
彼女が瀬堂 癒魅亜である事は、ある程度知れているのかも知れないとボクは思った。
「場所を変えましょう。とりあえずウチに来て」「ウチって、まさかキミのマンション?」
「それはそうよ。家庭教師として契約すれば、そこがあなたの職場になるのだから。何か問題でも?」
「た、確かに……」
ボクと瀬堂 癒魅亜は店を出ると、近くの高級マンションのフロントを通った。
彼女無しでは、到底ボクなど入れない場所だった。
高速エレベーターで最上階まで上がると、両開きのエレガントなドアが開く。
「入って」瀬堂 癒魅亜は、瞳の虹彩認証で部屋のドアを開けた。
「あ、どうも。お邪魔します」ボクは恐る恐る足を踏み入れる。
部屋は黒い大理石の床にベージュ色のカーテン、大きな天蓋付きのベットまで置かれていた。
「これはまた……セレブの力は恐ろしいな……」
日頃見慣れた、四畳半の床に黄ばんだカーテン、煎餅の様に固くなった布団が年中敷かれた部屋とは、対極を成す部屋が目の前に存在した。
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