エリス
その日の放課後、ボクはチャラ男に校舎の屋上へと呼び出され、ボコボコにされた。
いくら腹が立ったとは言え、女の子に手を挙げるワケにも行かなかったのだろう。
「……その代役が……ボクかよ。アイツからすれば……妥当な判断か?」
散々殴られた後、屋上の落下防止用フェンスに寄りかかって流れる雲を見上げる。
しばらくすると、時澤 黒乃が突然屋上へとやって来て、言った。
「あなたの傷……舐めさせて……」「え?」
手当てでもしてくれるのかと思いきや、彼女は本当にボクの顔を、ペロペロと舐め始める。
「……ヘモグロビンの味がするわ」
ボクは何故か、彼女のこの異常な行為を抵抗もせず受け入れる。
傷を舐める小さな舌は、猫のようにくすぐったく、純粋なまでに優しく感じられた。
「キミはとんだ『エリス』だな……」
エリスとはギリシャ神話において、黄金の林檎を使ってギリシャ全土を戦乱に陥れた、不和と争いの女神である。
何も答えずに、ひたすらボクの傷を舐め続ける、時澤 黒乃。
夕陽に染まる黒髪からは、シャンプーの甘い香りが漂って来た。
(エリス……不和と争いの女神であっても、女神は女神か)
『リーン ゴーン』下校を催促するチャイムが鳴った。
すると彼女は、傷を舐める作業を止め、屋上を後にする。
「ありふれた物に、なんの価値も無い……か。ボクなんか、その代表なんだろうな」
しばらく彼女の降りて行った階段を眺めていたが、虚しくなったボクはトボトボと校門を出た。
ボクはその日を境に、次第に学校へ行かなくなり、そして……完全に『引き篭もった』。
けれどもそれは、チャラ男の暴力を恐れたと言うより、学校という空間に意義を見出せなくなった……と言うのが正しい気がする。
「彼女も、今の社会が窮屈で仕方が無い。そう感じてるんじゃ無いだろうか?」
ロールプレイングゲームの退屈なクエストを消化してる時や、暇つぶしにネット動画を流し見している最中に、漠然とそう思った。
その彼女が突然部屋に来て、あの時と同じようにボクの顔を小さな舌で舐めているのだ。
「ねえ、今から行ってみない? アナタが『引き篭もるのにふさわしい場所』に」
猫のような四つ脚姿の彼女が、再び同じ質問をする。
「引き篭もるのにふさわしい場所って?」ボクは恐る恐る聞いてみた。
今度は舌で遮られなかったが、時澤 黒乃は少し遠回しな説明を始める。
「知っているかしら? わたし達が住むこの街には昔、炭鉱で栄えた時代があったのよ」
「そうなんだ? 知らなかったよ」
「時代に置いてけぼりにされた炭鉱なんて、滑稽よね。存在していても、存在している意味なんてどこにも無いもの。わたし達みたいだと思わない?」
「え?」彼女の言葉には、時代に見捨てられた廃鉱に対する、同情の念すら感じられた。
「その炭鉱に、これから行ってみない?」
時澤 黒乃はとつぜん立ち上がって、体の向きをクルリと百八十度換える。
翻ったスカートが、ボクの目の前で舞った。
「た……炭鉱に?」咄嗟に目を逸らしながら、伺いを立てる。
「アナタの『引き篭もりに対する主義』に反するのかも知れないけれど、少しでも興味があるなら行きましょうよ?」
彼女の口にした『主義』と言う言葉は、ボクには最も縁遠い言葉であり、逆に時澤 黒乃にとっては、最もふさわしい言葉の様にも思えた。
「そんな主義は、ボクには無いよ。けど……うん、行くよ」
ボクは生まれて初めて、年頃の女の子と二人で外出する。
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